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故障、海外移住、肺活量…苦境に「下向かぬ」平成生まれの関取

【スポーツ群像】 十両舛ノ山が「平成生まれ初の関取」として話題を呼んでから1年が経った。将来を嘱望された若武者は今、「故障」という泥沼の中を這(は)うように進む。今年に入って右足首を痛め、状態が上向くと今度は左足首を痛めた。テーピングが巻かれた足元は180キロの体重と得意の押しを支え切れず、番付は行ったり来たりである。入門前にはフィリピンでの厳しい生活を経験し、肺が小さいという事実も抱える。21歳が向き合う土俵外の苦闘とは-。(宝田将志)

 ■「ヤケクソ」の白星

 取り直しの一番が時間いっぱいとなった。顔、胸、太もも。気合を込めた大きな手が、丸い体を叩きに叩いてから最後の塩をつかむ。

 11月、九州場所7日目。相手は武州山。立ち合い、14歳年上のベテランに対し、舛ノ山はやや横に動いた。先に得意の左を差すと足を止めず前へ。体の力を全て絞り出すようにして寄り切った。足を引きずり、そして激しく喘(あえ)ぎながら勝ち名乗りを受ける姿に大きな歓声が寄せられた。

 「だいぶ(左足首は)きてましたね。駄目かと思ったけど、部屋の近くの人が応援に来てくれていて気合が入ったというか、ヤケクソでした」

 風呂から上がり、支度部屋で苦笑いしながら取組を振り返る。呼吸を乱したまま、顔をしかめて左足首に氷を詰めたビニール袋を当てた。

 「痛いのを表に出さないようにと思ったけど、勝ち残りでいたらジンジンして。親方には『無理するな』と言われているんですが、勝ちたくなってしまうんで…」

 関取になって初めてだという取り直しを制し、白星先行となる4勝目。この日、館内の敢闘アンケートで十両部門の1位を獲得した。

 ■一回り小さな肺

 武州山との取り直しの前。土俵下で審判委員の協議を待つ間、舛ノ山は「取り直しだけは勘弁してくれ」と願っていたという。

 取り直しや長い相撲はきつい。それは舛ノ山に他の力士にはない特徴があるからだ。ハンディと言ってもいい。小さな肺である。ものの例えではなく、実際に小さいのだという。

 稽古中に呼吸が苦しく、昨年5月の夏場所後に病院で検査してもらうと、「普通の人より一回りくらい肺が小さい」と診断された。取組の後、異常に息が上がるのは、このためだ。

 プロスポーツ選手としては致命的とも言えそうだが、舛ノ山は「他の競技より相撲は瞬間的に勝負がつく。一気に圧倒する相撲を取れるようになればいい」と深刻に捉えないようにしている。

 ただ、稽古に関しては独自の形を取らざるを得ない。構えた力士の胸に当たる「ぶつかり稽古」は、繰り返すと、すぐに過呼吸のような状態に陥ってしまうのだ。その点において、師匠の千賀ノ浦親方(元関脇舛田山)が理解を示し、柔軟に対応してくれていることは大きい。

 「本人は呼吸が全開になると次に力が出ないという。できないことは仕方ない。70~80%の力でぶつかって、その分、数を多くやらせている」と親方。本人もプールを歩くトレーニングを取り入れるなどして心肺機能と下半身の強化に努めている。

 ■ハングリー

 千葉県北部、栄町出身の舛ノ山は小学3年から地元のクラブで相撲を始めた。同級生より一回りも二回りも大きかった少年は、小学5年時にわんぱく相撲全国大会で3位に入るなど活躍。しかし、家庭の事情で中学3年、14歳の時に母親の故郷であるフィリピンに渡った。

 生活は厳しいものだった。現地の料理である、豚の血を煮込んだスープは口に合わず食べられなかった。雨が降れば家が水浸しになる環境の中、井戸の水を汲みペットボトルに詰めるアルバイトで家計を助けてきた。

 「向こうでは生計が苦しくなってきて成功して養わないと、と思ったんです」。1年と数カ月で日本に戻り、かねて目をかけてくれていた千賀ノ浦親方の部屋に入った。「祖父母はフィリピンにいるので毎場所仕送りしてきた。早く楽に過ごせるようにしたい」と、てらいなく話す。

 平成18年名古屋場所、たった1人の新弟子として初土俵を踏んだ。途中、腰を痛め停滞する時期もあったが、体重の増加と比例するように馬力を武器に番付を上げ、昨年11月の九州場所で新十両。平成2年生まれの舛ノ山は鳴戸部屋の高安と並び「平成生まれ初の関取」となり脚光を浴びた。

 「新弟子の頃はドンブリで2杯食べてから、ボールでハヤシライスを食べていた。夜食は2000円分くらいガッチリ弁当とかサンドイッチとか食べてます」

 当時、こう笑顔で語る19歳の将来は明るいものと思われた。

 ■けがの悪夢再び

 その道が険しさを増したのは十両2場所目、幕下まで後がない西14枚目で迎えた今年1月の初場所だった。

 初日から6連勝と好スタートを切ったが、朝の稽古場でテッポウ柱に向き合っていた際、後ろから同僚力士がぶつかり、右足首の靱帯を損傷してしまう。

 9日目から途中休場。様子を見て11日目から再出場し、何とか連勝で勝ち越しを決めたが、故障を悪化させ14日目から再び休場を余儀なくされた。

 千賀ノ浦親方は、こう言って当時を振り返った。

 「あそこで休ませたら良かったのか。足を引きずっているのを見るとね。悔いばかり出て今でも尾を引いている」

 右足がようやく小康状態になってきたのは7月の名古屋場所。突き押し、左差しの型に重量感のある出足が相まって東十両筆頭で11勝を挙げた。決定戦で敗れ優勝は逃したものの場所後に新入幕を果たす。番付は東前頭9枚目まで上がっていた。

 しかし、けがの悪夢が再び襲う。9月の秋場所、4日目栃乃若戦。立ち合いでぶつかり合った瞬間、舛ノ山の左足がひしゃげ、その場に崩れ落ちた。左足首の靱帯損傷。とても一人で歩けなかった。

 「体勢が起きていたのに根こそぎ持って行こうとしてしまった。気持ちだけが先走ってしまった」

 遠因は右足の故障にあったのかもしれない。体のバランスが崩れ、左足にも負担が掛かるようになっていた。疲れが取れやすいようにと牛肉より豚肉を食べるように努め、ちゃんこ番の兄弟子たちもメニューに気を遣ってくれた。その矢先の負傷だった。

 ■下を向かない

 かつて大相撲には公傷制度があった。本場所の土俵上で負傷した場合、「公傷」と認定されれば次場所を全休しても現在の地位が保たれる制度である。しかし、制度を利用した休場者が激増したため平成15年限りで廃止。八百長問題を受けて発足した新生委員会が4月、公傷制度の復活を日本相撲協会に提言したが、継続審議となったまま復活の気配はない。

 翌日から途中休場となり、その分、番付は落ちた。幕内はわずか1場所で十両に逆戻りとなった。

 「またやり直しかと思いましたけど、これまで頑張ってきた体力とか筋力が落ちたら、それこそへこみますからね。それに痛めた箇所も意識して鍛えるようになったし、下を向かないようにしたい」

 上半身の鍛錬は怠らず、一方で、名古屋に名医がいると聞けば、2週に一度、東京の部屋から通って整体を受けた。インターネットや書籍で足首の鍛え方や栄養学を調べて実践。ほぼ毎日、1時間以上の早歩きを自らに課し、ミネラルが採れるようにと食事は白米から玄米に変えた。

 それでも完治には遠かった。迎えた11月の九州場所。3日目の鳰の湖(におのうみ)戦、再び左足首に鋭い痛みが走った。いなされた際に同じ所をひねってしまったのだ。「全快」に向けて約2カ月。薄紙を一枚ずつ重ねるように根気よく労ってきたが、振り出しに戻るのは一瞬だった。

 以降は、足を引きずりながら土俵を務めた。加えて、11日目の夜には風邪で38度6分まで熱が上がり、千秋楽まで37度台の発熱が続いた。最終成績は7勝8敗。1年納めの場所は、一つ負け越して終わった。

 「今場所は長かったです。毎日、また(足首を)やらないか怖かった」

 憔悴した様子で胸中を明かした。

 プロである以上、負傷を繰り返すことは褒められたことではない。心の奥にこびりついた再発の恐怖も、これから振り払わなければいけないだろう。もちろん、それは本人が一番分かっていることだ。

 千秋楽、福岡国際センターを後にする舛ノ山は、こう誓った。

 「早く治すことですね。地道に頑張ります。怪我が治ったらいけると思うんです」

 21歳は信じて進む。この我慢の先に、より強くなった自分がいると信じて進む。



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111211-00000522-san-spo
※この記事の著作権は配信元に帰属します。



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